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クロアチア・イストラ都最大の都市・プーラの説明。プーラの人口、地理、歴史、文化・みどころなどを紹介しています。
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イストリア半島は紀元前177年にローマ人によって征服された。この時からローマ化が始まった。町は、紀元前46年から45年にかけ、植民地の地位に上がった。この時期に町は成長し、およそ30,000人の人口を持つ全盛期であった。司法権の元で広範囲に渡る周辺地域を持つ、目をひくローマ港となっていった。オクタヴィアヌス、マルクス・アントニウス、レピドゥスの三頭政治が行われていた紀元前42年の内戦時には、町はユリウス・カエサルの暗殺者マルクス・ユニウス・ブルートゥス、ガイウス・カッシウス・ロンギヌス側についた。町が、カッシウスの兄弟クイントゥス・カッシウス・ロンギヌス(en:Quintus Cassius Longinus)によって創建されていたためである。オクタヴィアヌスの勝利が確定した後、町は荒れるがままにされた。オクタヴィアヌスの娘ユリアの要請ですぐに町は再建され、コロニア・ピエタス・ユリア・ポーラ・ポレンティア・ヘルクラネア(Colonia Pietas Iulia Pola Pollentia Herculanea')と呼ばれた。偉大な古典建築が建てられ、わずかにその姿をとどめている。ローマ人は市に給水と下水システムを供給した。彼らは10の門のある市壁で防衛を強化した。これらの門の幾つかは今も残る。凱旋式のセルギイのアーチ(en:Arch of the Sergii)、ヘラクレス門(都市の建設者の名を刻んだ)、そして双子門である。セプティミウス・セウェルス帝時代、市名はレス・プブリカ・ポレンシス(Res Publica Polensis)に変えられた。

425年、町には司教座が据えられた。わずかに残る宗教建造物の名残がそれを立証する。

参照元:ウィキペディア「プーラ
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