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クロアチア・イストラ都最大の都市・プーラの説明。プーラの人口、地理、歴史、文化・みどころなどを紹介しています。
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1813年、プーラ及びイストリア半島はオーストリアのもとに戻った(のちにオーストリア=ハンガリー帝国となる)。プーラは、ハプスブルク家の直轄領となった。この時代にプーラは繁栄を取り戻した。1859年からプーラの広大な天然港はオーストリア軍の主要海軍基地、主要造船中心地となった。プーラは、消えゆく古代遺跡をもつ小都市から産業の町への変換を遂げたのである。プーラの南に位置するロシュニ島は、ハプスブルク家の皇族らの夏の休暇地となった。

1918年にオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊すると、プーラとイストリアは和平条約のもとイタリアへ全て与えられた。この時代は、経済・政治ともに不穏な時代であった。ベニート・ムッソリーニのファシスト政権下、非イタリア人、特にスラヴ人住民は政治的・文化的抑圧を受け、多くがイストリアの都市から逃れていった。1943年9月、イタリアが第二次世界大戦に降伏するまで、その支配が続いた。ナチス・ドイツ軍が、退却するイタリア軍兵士らによって生じた空白地帯を埋めた。ドイツ軍政時代、プーラは最悪の時期であった。パルチザンのゲリラ闘争を疑われた市民の逮捕、追放、処刑が行われたのである。一方で、連合国側の悲惨な空襲が繰り返され、プーラを全体的に破壊したのだった。

参照元:ウィキペディア「プーラ
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