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クロアチア・イストラ都最大の都市・プーラの説明。プーラの人口、地理、歴史、文化・みどころなどを紹介しています。
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西ローマ帝国の崩壊後、市と地域は東ゴート族に破壊された。東ゴート王国支配は60年後に終わりを迎え、プーラは東ローマ帝国勢力下のラヴェンナ総督府の支配を受けた(540年-751年)。この時代にプーラは繁栄し、東ローマ艦隊の主要港となった。大聖堂と麗しのマリア教会は、総督府時代からある建物である。

スラヴ人が町周囲に初めてやってきたのは7世紀である。しかし彼らは実際にプーラに定住したことはなく、市は常にローマ都市であり続けた。市の歴史はその位置からイストリアの他都市同様に、ヨーロッパ強国間の国境の書き直しが繁栄され続けた。

788年以降、プーラはカール大帝の治めるフランク王国の支配を受けた。1077年まで、プーラは選挙で選ばれたイストリア伯の本拠となっていた。1148年にヴェネツィア人らに市は征服され、1150年にはヴェネツィア共和国の所有となった。その後数世紀にわたり、市の運命はヴェネツィア勢力ときつく結ばれたのである。1192年にはピサ共和国に占領されたが、すぐにヴェネツィアが奪回している。

1238年、ローマ教皇グレゴリウス9世は神聖ローマ帝国に対抗してジェノヴァ共和国とヴェネツィア間の同盟を結んだ。そしてその結果ピサとも対抗することになった。プーラがピサの側についたことから、1243年にヴェネツィアによってプーラは略奪にあった。1267年、1397年の二度、ジェノヴァが海戦でヴェネツィアに敗退するとプーラは破壊された。

プーラはゆっくりと衰退していった。ローマ系の旧家セルギ家とイオノタシ家という地元の名家による内部抗争と、ヴェネツィア=ジェノヴァ間のプーラと港を巡る争いによってプーラの凋落はいっそう進んでいった(13世紀終わりから14世紀)。

プーラは、訪れたイタリアの詩人ダンテ・アリギエーリによって『神曲』に引用された。『イスタルスキ・ラズヴォド』(Istarski Razvod、1325年)もこの時代である。これはラテン語、ドイツ語、クロアチア語で書かれた重大なクロアチア語写本で、グラゴール文字と呼ばれる古いクロアチア語アルファベットで書かれている。

参照元:ウィキペディア「プーラ
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